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渡哲也さん肺炎のため死去 78歳 「アウトローが好き」な昭和のスター逝く

(2020年8月14日22:45)

渡哲也さん肺炎のため10日に死去していた 78歳
(渡哲也さん=石原プロモーションのHPから)

「大都会」「西部警察」などのドラマや「仁義の墓場」などの映画で活躍した昭和のスター俳優、渡哲也さんが10日に肺炎のため死去していたことが14日、分かった。78歳だった。同日、近親者のみで密葬が営まれたという。

先月、渡さんが石原裕次郎さんの後を継いで2代目の社長を務め、現在相談役を務めていた石原プロモーションが来年1月に解散することが発表されたばかりだった。石原プロの終焉決定とともに天国へ旅立った。渡さんは1991年に直腸がんの手術でオストメイト(人工肛門使用者)になったことを告白していた。15年には急性心筋梗塞の手術を受け、近年は肺気腫などを患いリハビリ中だったという。

■「やっぱり活劇が好きです。『紅の流れ星』でやったみたいなアウトローが好きだなあ」(1975年、「仁義の墓場」の撮影現場で)

渡さんは日活時代から石原裕次郎さんを尊敬し71年に裕次郎さんが石原プロモーションを設立したときに石原プロ入りして裕次郎さんを支えてきた。裕次郎さんが明るく輝き豪放磊落だったのとは対照的に、実直、律儀、義理人情、寡黙、ストイックといった仕事ぶりや普段の生きざまで知られた。

1974年に胸膜炎を患い、NHK大河ドラマ「勝海舟」を途中で降板(松方弘樹が代役で主演)。約1年療養生活を送った。75年、再起第1作として深作欣二監督の東映「仁義の墓場」に主演したときに、東京・練馬区の東映東京撮影所でインタビューしたことがあった。「つきすぎていたんじゃないかなあ。これまでの10年間は。普通の学生だったぼくが日活に入って。演技のえの字も知らなかったんですからねえ。学芸会やっているみたいなもんでしょう」と役者生活10年を振り返って、照れながら謙虚に語ったのが印象的だった。「やっぱり活劇が好きです。『紅の流れ星』でやったみたいなアウトローが好きだなあ。サラリーマン役は僕にはできないし」と語っていた。

■渡哲也(わたり・てつや)

1941年12月28日生まれ。兵庫県出身。青山学院大学4年の1964年、浅丘ルリ子映画出演100本記念の映画「執炎」の相手役公募に実弟の渡瀬恒彦さん(俳優、2017年、72歳で死去)が本人に無断で応募。日活撮影所に行ったときに食堂でスカウトされ公募とは関係なく日活入社が決まったという。
1965年、映画「あばれ騎士道」の主演で俳優としてデビュー。鈴木清純監督の「東京流れ者」(66年)や、桝田利雄監督の「紅の流れ星」(67年)71年、同監督の「無頼より・大幹部」(68年)を皮切りに計6本製作された「無頼」シリーズなど、71年に日活がロマンポルノ路線に転向するまで毎年10本前後の映画に主演した。その後、桝田監督とのコンビで松竹「さらば掟」(71年)、「剣と花」(72年)、小谷承靖監督の「ゴキブリ刑事」(72年)、などに主演。74年に胸膜炎を患い、NHK大河ドラマ「勝海舟」を途中で降板。約1年療養生活を送った。75年、再起第1作として東映の深作欣二監督「仁義の墓場」に主演。76年、深作欣二監督の「やくざの墓場・くちなしの花」で第19回ブルーリボン賞主演男優賞を受賞した。
71年に、日活の先輩・石原裕次郎さんが設立した石原プロへ入社。同プロ制作の日本テレビ系「大都会」シリーズ、テレビ朝日系「西部警察」の大門圭介部長刑事役などで一世を風靡した。歌手としても、73年の「くちなしの花」が150万枚の大ヒットを記録した。